お知らせ
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作成日:2023/04/01
THE ERROR 失敗の法則T



NHKBSプレミアムで放映された雪印2つの事件
ご覧になられた方も多いと思います。

2000年6月に発生した集団食中毒事件
情報開示の遅れ、初動の対応の不手際で、13,000人を超える戦後最大規模の食中毒事件となりました。
(これは、雪印のどん底からの再生の物語でもあります。)

ざっくりおさらいすると
2000年6月27日 雪印西日本支社に大阪工場で製造された加工乳を飲んで下痢嘔吐の症状がでたという苦情の電話が入る。
6月28日 保健所が雪印大阪工場に立ち入り検査し、自主回収、新聞での事実の公表勧告をする。
雪印は、自主回収には応じたものの、事実の公表には、大阪工場長だけでは決定できないと回答を留保。
折しも、全役員、幹部は株主総会で札幌に出張中。
6月29日 保健所が先に会見を開いて公表する。
6月30日 雪印、新聞で公表。
7月1日社長が会見、しかし、社長は、詳細については知らないことが発覚。
7月2日、発症者の飲み残しの加工乳から毒素エンテロトキシンが見つかる。

8月になって、事件は意外な展開をします。
事件3ヶ月前、北海道の大樹工場で、つららが配電室の屋根を貫き、水漏れから配線がショートし、停電となり、全面復旧するまで9時間かかりました。その間、冷却されるはずの牛乳が20°〜40°で放置され、
それによって黄色ブドウ球菌が爆発的に増殖し、
毒素エンテロトキシンを作り出す恰好の環境が生まれました。

工場は、熱処理をし、そのまま脱脂粉乳を製造、1,200袋が大阪工場に送られます。
黄色ブドウ球菌は熱で消滅するが、毒素エンテロトキシンは熱に強かったため、毒素が残ったままとなりました。
当時、検査方法は確立されておらず、国も検査を義務づけていませんでした。
雪印に脱脂粉乳が汚染されているという認識はありませんでした。

衛生管理の知識の欠如、そして、ずさんな記録、日報の改ざんが表沙汰になります。

1ヶ月後、雪印は社長、幹部刷新。

連絡体制の一本化、衛生管理を徹底するため、全ての工場に検査機器を導入しますが、

この年、雪印グループは、529億円の赤字を出し、8工場閉鎖、1,000人に及ぶリストラを余儀なくされました。

なぜ、初動対応が遅れたか?

最初の不祥事発生時に、現場の社員が、消費者の顔を思い浮かべるか、上司の顔を思い浮かべるか(國廣正弁護士)

誰が事件をおこしたというのではなく、売上至上主義という風土、会社の文化の責任として振り返らなければならない。(水野誠一西武百貨店元社長)

再建途上、2002年1月 今度は子会社の雪印食品が牛肉偽装事件をおこします。
輸入牛肉を国産と偽り、交付金(当時は狂牛病が社会問題となり、牛肉の買い控えがおこり、雪印食品は輸入牛肉の大量の在庫を抱えていました。)を不正受給し、詐欺事件となり、有罪となります。

雪印は、再び、店頭から姿を消します。

雪印のルーツは
およそ100年前、酪農民が、農民による農民のための生活組織をめざして
1925年(大正14年)北海道製酪販売組合として設立しました。
バターの製造から始め、チーズ、牛乳と事業を拡大します。

その精神は、創立メンバーの一人K澤酉蔵氏がとなえた
「健土健民」
健康な土地が健全な食料をもたらし、健全な食料が健全な人間を形成する。

生産者と消費者とを良質な商品で繋ぐことで、人々を健やかにする、
それが自分たちの使命だと考えていました。

その後、雪印は、昭和30年ごろから業界トップとなり、多角化し、
平成に入ると、グループ全体の売上は1兆円超えとなり、
いつしか創業時の酪農関係者は経営から姿を消し、
酪農の現場に一度も足を運ばない社員が多くなりました。





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